今回は私磯貝賢一の父3代目磯貝銀治・幾代の代ついてお伝えします。
私が小学生になると父は病気で入退院を繰り返しており、
週末に安城厚生病院にお見舞い行くのが習慣になっていました。
母は入院中の父の看病をし、祖母と大磯屋を守りながら男3人兄弟(私が長男)を育ててくれました。
祖母同様、感謝の言葉しかありません。
そんな母の思いに応えるように父も病気と闘いました。
しかしながら、37歳(平成元年2月25日)で帰らぬ人となりました。
清濁併せ吞む大河のように、誰からも好かれていた器の大きな父
(たくさんの方から父の色んな事を教えて貰いました)。
父を知る人は例外なく父を褒めてくれます。
あいつ(銀治)を悪く言うやつは聞いた事が無い。
一時それがプレッシャーになった受け取り方が斜になっていた自分もいました。
しかし今では他界した後でもみんなに慕われる父を誇りに思い、
その遺伝子を少しでも継承している事を感謝出来るように。
そんな父でしたので、母は本当に大変な思いや苦労をしたと思います。
その当時、丹波哲郎の大霊界を当時一緒に見た記憶があります。
あいだみつをさんの作品に母が感銘をおぼえて、色んな作品もしていました。
我が家の至る所でみつをさんの作品に触れることが出来る環境でした。
作品集や日めくりカレンダー等トイレに座ると見える位置に。
※弊社経営理念おかげさんのモデルとなっていきます
そして母は色々と悩み考え、男3人兄弟を育てながら、
大磯屋を今まで通り支えて行くことは困難で
自分のペースで働ける長距離トラックの運転手に転職しようと
本気で考えていたようです。
免許取得出来たよ!と母が喜んでいたのも記憶してます。
今振り返ると、2代目の志津子ばあちゃん並みの行動力。
そのまま行けば大磯屋は廃業して、熟成焼そばはこの世から無くなっていました。
勿論そうなっていれば、焼そば賢ちゃんはいませんでしたね(^^;
2代目志津子が考案した熟成焼そばはその当時も地域に馴染み、
地元のお客様に大切にしていただいておりました。
父の件があり、お客様にお店を畳むことを考えていることを伝えると
「この焼そばは何としても残して欲しい!」等の声があり、
「製造さえしてくれれば、お店に引き取りに行くから」との強い要望に、
一時はトラックの運転手として生きて行くと決めた母でしたが、
地元のお客様の強い要望によっておれる形になり、
大磯屋熟成焼そばの製造が続けられることになったのです。
子供を一人で育てながらなので、販路拡大や、設備投資等はせず、
先代から引き継いだ熟成焼そばの味を守り、生活が出来ればとの思いで
幾代は頑張りました。
いずれにしてもお客様が母より強い意志を持って説得しなければ
今の大磯屋はありません。
熟成焼そばは地域のお客様のおかげで現在でも残っているのです。
お客様、地域への恩返しとして、大磯屋を維持、発展させることが
後継者としての使命の一つと考えております。
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