今回は私磯貝賢一の入社当初までについてご紹介していきます。
小学校5年生から地元小学校の少年野球を始め、中学校、高校も
ずっと野球一筋ですくすくと育って行きました。
地元の碧南高校野球部が熱心にやっているからと進められ進学。
野球部引退後に進路を監督に相談したら、
「母子家庭で自営業の長男だから大学行くよりも早く家に入って母親を楽に
させてやったらどうだ」と言われ、素直に大学進学しない道を選びました。
将来自分で作った焼そば麺を自分で調理してお客様に提供できたらと言う考えで
高校卒業後は1年間名古屋調理師専門学校へ。
その後業務用生中華麺の製造メーカー太陽食品様、ダイイチ食品様等で
4年あまり下積み時代を過ごしました。
特に有限会社ダイイチ食品様では会社立ち上げを市川和也さん(現同社会長)と
ご一緒させて頂き、創業者の苦労、自分の無力さ、御縁の繋ぎ方、
沢山の色んな体験を出来ました。人間としても
沢山成長させて頂きました。感謝してもしきれません。
色んな経験を時期でした。
市川さんへの恩返しは大磯屋が成長、発展することで、
お返ししていきたいです。
話は変わり、妻である裕子(ひろこ)とは下積み時代に出会いました。
少しでもタイミングがずれていたら、付き合うことも無かったので、
運命だったのかも?!
その後2002年5月1日に賢一が大磯屋へ入社しました。
販路拡大の為に既存の機械では
異物混入等のリスクがあるからと製麺機の新ラインを発注し、
その年の年末に導入され、販路拡大に向けて第1歩を踏み出しました。
しかし、順風満帆には行かないのが世の常です。
新しい製麺機械で製麺の効率が上がると浮足だっていた私に
待っていたのは試練でした。
見た目はほとんど変わらない麺ですが、生地感が以前の古い機械と全く違い、
自分の思うような焼そばが作れませんでした。
どれだけ調整しても、全く良くなっていかないのです。
沢山の生地を廃棄し、納得のいかない生地を捨てた廃棄量と
私のストレスだけがどんどん溜まって行きました。
新しい機械を導入しなければ良かった・・・。(最初は本気で思っていました)
販路拡大なんて甘かった・・・。
大磯屋が潰れてしまったらどうしよう・・・。
なんで上手く作れないのか・・・。
夢の中でもずっと考えていて、寝たのか寝てないのか・・・。
眠れない日が半年位続きました。
原因は自分の経験、知識、想いの不足等私にしかありませんでした・・・。
色んな方に相談に乗ってもらい、様々な作り方を試しました。
その期間の焼そば麺は今と比べるとかなりばらつき等があったかと思います。
この場をお借りしてお詫び申し上げます。
しかし、その経験のおかげで未熟であった私に
経験や知識、想いを授かる事が出来ました。
私、大磯屋はまだまだな所も多々ありますが、社員はじめ皆さんのおかげで
自信を持って商品を提供できる今は、それだけで幸せなんだと。
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